偉大なる『ビートルズ』の歴史

ザ・ビートルズ/アンシーン・ビートルズ(DVD)

ザ・ビートルズ/アンシーン・ビートルズ(DVD)

BEATLES/BEATLES (LONG CARD BOX WITH BONUS DVD) : ビートルズ/ビートルズ(ロング・カード・ボックス・ウィズ・ボーナスDVD)

ビートルズ/ビートルズ(ロング・カード・ボックス・ウィズ・ボーナスDVD)

ザ・ビートルズ・アンソロジー DVD-BOX(通常版)※再プレス(DVD)

ザ・ビートルズ・アンソロジー DVD-BOX(通常版)※再プレス(DVD)
 

 ザ・ビートルズ/ザ・ビートルズ BOX(16CD+DVD)(CD) ◆15%OFF!

ザ・ビートルズ/ザ・ビートルズ BOX(16CD+DVD)(CD) ◆15%OFF!

 


1962年の
出来事→GO


「ビートルズ」の誕生
 1月1日、ロンドンでデッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格となり、メジャー・デビューへの道が足踏み状態となるものの、昨年結ばれていたエプスタインとのマネージメント契約書にビートルズ全員の署名が取り付けられ、エプスタインとビートルズとの契約は正式なものとなった。

 その後も彼らは、キャバーン・クラブをはじめとするさまざまなステージをこなしながら実力をつけていき、2月5日の演奏では、体調の悪かったピート・ベストに代わり、ロリーストーム&ハリケーンズ在籍中だったリンゴが臨時のドラマーをつとめるという出会いもあった。

 2月12日にはBBCラジオのオーディションを受け、合格。BBCラジオ「ティーンエイジャーズ・ターン/ヒア・ウィー・ゴー」をはじめとするいくつかの番組に出演していく。
 バンドのイメージ・チェンジが必要だと考えたブライアン・エプスタインは、お揃いのスーツを買い与え、初期のビートルズの基本スタイルが確立された。

 3回目となるハンブルグ巡業に出かけた彼らは、かつてメンバーであったスチュアート・サトクリフの死を知らされるが、イギリスに戻ってからもキャバーン・クラブなどで演奏を続け、6月15日にはレノン=マッカートニー・ソング「アスク・ミー・ホワイ」が初めて電波にのるなど、活動が順調に進んでいくが、ドラマーに不満を感じていた彼らはピート・ベストに代わってリンゴ・スターをメンバーに迎え入れることにする。

 8月18日、リンゴ・スターを迎えての初のステージが、バーケンヘッドのヒューム・ホールで行われ、同月23日には、ジョンがリバプールのマウント・プレザント登記所でシンシア・パウエルと結婚する。

 9月4日には、アビー・ロードでデビューシングルのセッションが行われるが、11日にはセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトを迎えて再び「Love Me Do」をレコーディングしている。
 10月1日、ビートルズの4人とブライアン・エプスタインのネムズ・エンター・プライズとの間で1967年末日に無効となる正式契約書が取り交わされ、5日、ついに「Love Me Do / P.S.I Love You」でレコードデビューを果たした。

 その後は、グラナダTVのローカル番組「ピープル&プレイシズ」に出演するなど、徐々に知名度を上げ、12月中旬からはハンブルグへ最後の巡業に向かうのであった。

1963年の
出来事→GO


「ビートルズ・ブーム」と「ビートルマニア」

 レコード・デビューを果たした彼らは、1月2日からスコットランドへ初の本格的ツアーに出かけ、8日にグラスゴーでスコティッシュ・テレビの子供向け番組「ラウンドアップ」に生出演したのち、12月中旬以来、久しぶりにリヴァプールに戻る。

 1月11日、2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」をリリースした彼らは、その後も、キャバーンで演奏や人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の出演、BBCのラジオ番組「ヒア・ウィ・ゴー」、「ポップ・イン」、「サタデイ・クラブ」、「タレント・スポット」の収録などさまざまなスケジュールをこなしていく。

 2月22日、ついにシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスのチャートで1位を獲得。ビートルズ旋風の幕開けである。

 3月3日からは2回目となるイギリス全国ツアーを開始し、その途中の22日、アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」をリリースする。

 4月22日にリリースした3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥー・ユー / サンク・ユー・ガール」は、6週間チャート第1位を維持する大ヒットとなり、5月18日からは、ロイ・オービンソン、ゲイリー&ザ・ペースメイカーズと共に、3回目のイギリス・ツアー(当初、このツアーのメインはオービンソンだったが、ファンの要望でビートルズがメインになるという異例の事態に)を行うのであった。

 4枚目のシングル「シー・ラブズ・ユー / アイル・ゲット・ユー」はリリース後わずか1週間でチャート第1位となり、10月13日、ATV「ヴァル・パーネルズ・サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」に出演した際には、劇場前にファンが殺到して大混乱となり、この熱狂ぶりをメディアは「ビートルマニア」と表現した。

 10月24日からは、初の本格的海外ツアーとなるスウェーデン・ツアーを開始。11月1日からは、チェルテンハム・オデオンを皮切りに4回目のイギリス・ツアーを行っている。同月5日、ロンドンのプリンス・オヴ・ウェールズ・シアターで行われた「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」では、エリザベス女王、マーガレット王女、スノードン卿も出席、このときの模様はテレビでも放送されることとなった。

 11月29日には、5枚目のシングル「アイ・ウォナ・ホールド・ユア・ハンド / ディス・ボーイ」をリリース。予約だけで90万枚を突破し、初登場第1位になる。また、年末には、リヴァプール・エンパイア、ロンドンのアストリア・シネマなどでクリスマス・ショーを開催している。


1964年の
出来事→GO


アメリカ進出

 ビートルズの1964年は、前年末から行なわれていたクリスマス・ショー(演奏やコメディで構成された)のシリーズ後半への出演からはじまり、1月16日からはフランスでの長期公演(1月16〜2月4日)を行っている。ビートルズがアメリカで「抱きしめたい」がヒット・チャートの首位になることを告げられたのも、このフランス滞在中のことである。

 2月5日、ル・ブールジェ空港からヒースロー空港に戻った彼らは、2日後の7日、アメリカに向けて飛び立つ。すでにキャピトル・レコードからデビュー・アルバム『ミート・ザ・ビートルズ』が発売され、シングル「抱きしめたい」もキャッシュボックスとビルボード両誌で1位になっており、彼らのアメリカ上陸は最高のタイミングで実現することとなった。

 そしていよいよ2月9日、日曜午後8時、『エド・サリヴァン・ショー』に出演(視聴率72パーセントを記録)したことによってブームに火がつき、それまでイギリスのスターでしかなかった4人組は、その舞台をアメリカ、そして世界へと移し、真のスーパー・グループへと駆け上っていく。

 2月22日にイギリスに帰国したビートルズは、25日から主演映画『ア・ハード・デイズ・ナイト(ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!)』のレコーディングを開始。3月2日からは、映画の撮影に入り、4月16日、ジョンが新たに書いた映画の主題歌「ア・ハード・デイズ・ナイト」のレコーディングが行なわれ、その後、残っていたシーンの撮影を経て、映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』は4月24日にクランクアップする。

 この間の4月4日には、同日付ビルボード誌で1位から5位を独占。1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」、2位「ツイスト・アンド・シャウト」、3位「シー・ラヴズ・ユー」、4位「抱きしめたい」、5位「プリーズ・プリーズ・ミー」。さらに、トップ5以外にも、31位「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」、41位「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」、58位「オール・マイ・ラヴィング」、65位「ユー・キャント・ドゥ・ザット」、68位「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」、79位「サンキュー・ガール」と、トップ100中11曲がランクインするという快挙を成し遂げている。

 6月4日、初のワールド・ツアーを開始するが、リンゴが扁桃腺と咽頭炎で入院したため、前半はジミー・二コルがドラマーとして参加する。ツアーは、デンマーク、オランダ、香港とつづき、次のオーストラリアのメルボルン公演からはリンゴが復帰、さらにニュージーランド、ふたたびオーストラリアを回って幕を閉じる。

 その後はイギリス国内でテレビやラジオに出演、7月6日には、ロンドン・パビリオンで『A Hard Day's Night(ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!)』のプレミアム・ショーが開かれ、マーガレット王女も出席した。

 7月29日、スウェーデンへツアーに出たあと、8月18日、午後6時25分、初の本格的な全米ツアーのため、サンフランシスコ国際空港に到着。翌日から2回目のアメリカ・ツアー開始し、18州26ヶ所で9月20日までコンサートを行った。この間8月23日のロサンゼルス、ハリウッド・ボウル公演はライヴ・レコーディングされたが、あまりの歓声にビートルズの演奏がかき消されるという難題に直面したが、13年後の1977年、ライヴ・アルバム『ビートルズ・アット・ハリウッド・ボウル』として発売された。

 帰国した彼らは、10月9日、4週間にわたるイギリス・ツアーに出る。初日はブラッドフォードのゴーモント・シネマ。今回のツアーでは1日2回のコンサートが組まれ、最終日にあたる11月10日まで、ビートルズは以下の10曲をくり返し演奏した。「ツイスト・アンド・シャウト」「キャント・バイ・ミー・ラヴ」「マネー」「今日の誓い」「恋する二人」「すてきなダンス」「恋におちたら」「彼氏になりたい」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ロング・トール・サリー」。そして、年末には前年同様、音楽やコントによるクリスマス・ショー(12月24日〜65年1月16日)へ出演している。


1965年の
出来事→GO


世界制覇
 1月16日にクリスマス・ショーを終えた彼らは、2月15日の「HELP」のレコーディング開始まで、久しぶりの長期休暇に入り、ジョン、シンシア、ジョージ・マーティン、ジュディ・ロッカート・スミス(マーティンのガールフレンド)はアルプスへ、ジョージとパティはおしのびでヨーロッパへ行き、リンゴ・スターは2月11日モーリン・コックスと結婚している。

 2月15日、休暇を終えた彼らは「HELP」レコーディング開始。同月22日には2作目の主演映画『HELP!』のロケのため、メンバーはバハマ諸島へ向かう。3月22日、HELP!の撮影を終えイギリスに戻った彼らは、翌日から『HELP!』のセット部分の撮影をトウィッケンハム・スタジオで開始し、映画は5月11日にクランプアップした。

 この間の4月9日には、9枚目のシングル「Ticket To Ride / Yes It Is」をパーロフォンからリリース。イギリスのチャートで連続5枚目の初登場1位シングルとなっている。

 6月12日には、ビートルズがMBE勲章を受賞することが決定。同月17日、ヨーロッパ公演のため出発し、6月20日から7月3日までパリ、リヨン、ローマ、マドリッドなどでコンサートを行っている。7月4日、ヨーロッパ・ツアーを終えてロンドンに戻った彼らを1,000人のファンが出迎えた。

 7月23日、10枚目のシングル「Help! / I'm Down」をリリース。同月29日にはロンドン・パビリオンで開催された映画『Help!』のプレミア・ショーに出席。マーガレット王女とスノードン卿も出席している。

 8月6日にはアルバム「Help!」をリリースし、同月13日、3回目となるアメリカ・ツアーに出発。8月15日、観客動員数の世界記録を樹立し、伝説となったシェア・スタジアム公演を行うのであった。アメリカ滞在中、彼らはあこがれのエルヴィス・プレスリー邸を訪問。のちに全員とても緊張したと話している。

 彼らはアメリカ・ツアーを終え9月1日に帰国するが、同月3日、ジョンだけが『HOW I WANT THE WAR』の撮影のため、ドイツのルネバーグ・ヒースに向けて出発している。

 10月26日、彼らの外貨獲得に対する功労を賞し、バッキンガム宮殿でエリザベス女王からMBE勲章が授与された。のちに、ジョンは返還。

 12月3日、アルバム「RUBBER SOUL」および11枚目のシングル「Day Tripper / We Can Work It Out」(初の両A面シングル)を同時にリリースするとともに、イギリス・ツアーを開始。グラスゴー、ニュー・キャッスル・シティ・ホール、リヴァプールとつづき、12日にはウェールズ州カーディフにあるキャピタル・シネマで、ビートルズとして最後となるイギリス公演を行った。

1966年の
出来事→GO


ラスト・コンサート
日本武道館 1月21日、ジョージとパティがエプソムサレー州エシャーの登記所で結婚。メンバーの中ではポールだけが結婚式に参加し、エプスタインとともに花婿付添人を務めている。トリニダードへ旅行中で参列できなかったジョンとリンゴは、その後、エシャーにあるジョージのバンガロー「キンファウンズ」でパーティを行っている。

 3月4日の"ロンドン・イブニング・スタンダード"紙に、ジョンが、ビートルズが今や「キリストよりも人気がある」と発言したという記事が掲載され、その後、全米で物議をかもすこととなる。

 5月1日には、恒例のウェンブリ―・エンパイア・プールでの"ニュー・ミュージカル・エクスプレス"紙人気投票入賞者コンサートに出演したが、これが、ビートルズとしてのイギリス最終公演となってしまう。

 また、かねてから問題になっていたアメリカ編集盤のアルバム"Yesterday And Today"の"ブッチャー・カバー"について、ジャケットが「あまりにも攻撃的である」という理由でやり直すことになっている。

 6月23日、日本公演を含むワールド・ツアーに出発。27日にはドイツ・ツアーを終えて日本に向けて出発したが、台風のためアラスカ、アンカレッジで足止め。そして29日、ついに来日。ヒルトン・ホテルで記者会見を行った彼らは、30日から7月2日まで日本武道館において公演をおこなった。フィリピンでは観客数10万人というビートルズにとって最高の記録を樹立したが、マルコス大統領夫人主催のパーティーに出席しなかったため、マニラ空港でメンバーが暴行を受けている。

 7月29日、4ヶ月前のジョンのインタビュー記事がアメリカのティーン雑誌"デートブック"誌に転載され大騒動を引き起こし、アメリカ南部における"バイブル・ベルト(聖書地帯)"のラジオ局が、ビートルズのレコード焼き討ち集会を企画。31日には、アラバマ州のDJがキリスト発言に講義し、ビートルズの曲を放送禁止にし、その後、全米規模のビートルズ・ボイコット運動に発展していく。

Candlestick 8月5日、4月6日からレコーディングを開始していた7枚目のアルバム "Revolver"をリリースした彼らは、11日に最後のアメリカ・ツアーに向けて出発。シカゴでジョンが「キリスト発言」に対する謝罪の記者会見を行い、キリスト発言にけじめをつけたのち、13日のデトロイト・オリンピック・スタジアム公演、14日のクリーブランド・ミュニシバル・スタジアム公演、15日のワシントン公演、16日のフィラデルフィア・ミュニシバル・スタジアム公演、17日のトロント公演、18日のボストン公演、19日のメンフィス・コロシアム公演、20日のシンシナティ公演、21日のセント・ルイス公演、23日には2度目のシェア・スタジアム公演、25日のシアトル公演、28日のロサンゼルス・ダッジ・スタジアム公演、そして29日、ビートルズとしてのラスト・コンサートとなるサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク公演をおこなうのであった。ロンドンに戻ったポールは、「ツアーはすごく素晴らしかった。すごく疲れたけど」と語っている。

 このあと、ジョンの映画"How I Won The War(ぼくの戦争)"出演、ジョージのインド傾倒、ポールは映画作曲など、メンバーの個人活動が目立つようになっていくのであった。

1967年の
出来事→GO


ブライアンの死
 1月18日にエプスタインとビートルズは3作目の映画のシナリオを承認。テスト撮影まで行ったが、幻に終わっている。

 2月17日、通算14枚目となる両A面シングル「Penny Lane / Strawberry Fields Forever」をパーロフォンからリリース。ビートルズ最高のシングルだとする人も多いが、キャバレー歌手エンゲルベルト・フーデンバックがずっとトップにいたため、1962年以来続いていたチャート第1位に初めてならなかったシングルとなってしまった。

 4月21日にレコーディングを終えた「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」を、6月1日リリース。発売と同時に絶賛を浴びるが、BBC放送は「A Day In The Life」を、ドラッグの服用を促すとして発禁処分にする。このような状況の下、ポールが再びLSDを服用するかもしれないと発言し物議をかもす。

 6月25日、世界同時衛星中継番組「Our World」で「All You Need Is Love」のレコーディング風景が放送され、24ヶ国の計4億人がこの中継を観たと言われている。彼らは、急遽15枚目のシングル「All You Need Is Love / You're A Rich Man」をリリース。ポールは”ニュー.ミュージカル・エクスプレス”紙に、「『All You Need Is Love』は2週間で完成した。この曲のレコーディング風景を世界中に同時放送するって聞いたから、僕は世界にひとつだけメッセージを送ろうと思ったんだ。それは愛。今の世界にはもっと愛が必要なんだ」と語っている。

 8月27日、ブライアン・エプスタインが自宅で死亡しているのが発見される。享年32歳。 この時ビートルズはマハシリとともにノース・ウェールズのバンゴーにおり、ポールは「大変ショックです。気が動転していてどうしていいか分からない」とコメントしている。

 悲しみを振り払うかのごとく、次のアイデアである「マジカル・ミステリー・ツアー」の打ち合わせを、ポールの家で行い、9日にはテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の制作が正式発表されている。早速、彼らはロケ隊による撮影を9月11日から24日まで行い、続いて10月29日から11月3日まで、第2回目の撮影を行い、映画を完成させる。

 11月10日には、「Hello Goodbye」のプロモーション・フィルムを撮影し、24日16枚目のシングル「Hello Goodbye / I Am The Walrus」をリリース。

 12月5日には、アップル・ブティックのオープン記念パーティが開かれ、7日からロンドンのベイカー・ストリート94番地で営業を開始した。

 同月8日、同名のテレビ映画のサウンドトラックとしてEP盤「Magical Mystery Tour」をリリース。片面3曲ずつのレコードが2枚と32ページの漫画本がセットというものであった。

 12月25日、ポールは、かねてから付き合っていたジェーン・アッシャーとの婚約を発表。

1968年の
出来事→GO


メンバーの迷走
 1月22日、アップル・コープスがウィグモア・ストリートで業務を開始。

 2月16日、ジョージとパティ、ジョンとシンシアは、マハリシ・マヘシ・ヨギのもとでの瞑想を学ぶため、インドのリシケシュへ向かう。3日後にはポールとジェーン、リンゴとモーリーンもインドに向けて出発、ジョンやジョージたちと合流。彼らはこの時から4月にかけてメディテーション習得のためにインドに滞在する。後に、ミア・ファーローとビーチ・ボーイズのマイク・ラブが加わったが、まずリンゴが3月1日に帰国。次に26日、ポールが帰国し、4月12日、最後まで残っていたジョンが帰国。ジョージはマドラスへ向かった。のちに「メロディー・メーカー」紙のインタヴューで、ポールは「マハリシとのインドでの修行中にビートルズは20曲の新曲を作った」と語っている。

 3月9日、アルバム「Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band」がグラミー賞の4部門 (本年度最優秀アルバム賞、最優秀コンテンポラリー・アルバム賞、最優秀レコーディング賞、最優秀アルバム・カバー賞)を受賞。リンゴがビートルズの代表としてグラミー賞授賞式に出席した。

 3月15日には、パーロフォンでの最後のシングル「Lady Madonnna / The Inner Light」をリリース。B面ではあるがジョージの曲が初めてシングルに収められた。

 5月11日、ジョンとポールは新人発掘のため、デレク・テイラー、ニール・アスプナル、マルコム・エバンス等とともにニューヨークへ向かい、5月14日、自分たちの会社であるアップル・コープス・リミテッド設立を発表。ポールはその記者会見の席上で、リンダ・イーストマンと再会している。

 5月19日、ジョンとヨーコはジョンの自宅でサウンド・コラージュをレコーディング、2人の関係がはじまる。このときの録音は約半年後に「Two Virgins」として発表されている。


 6月20日、彼らがアメリカのキャピタル、イギリスのEMIとの契約を結び、今後のレコードは全てアップル・レーベルからリリースし、また、今後3年間、両会社はアップルの全てのレコードをディストリビュートすると発表される。そして21日以後、レコードはすべてアップルレーベルに改められた。

 7月17日、アニメ映画「Yellow Submarine」のプレミア・ショーがロンドン・パビリオンで開かれるが、ポールは1人で現れ、同月20日、ジェーン・アッシャーは、BBCTVの「Dee Time」に出演し、ポールとの婚約を解消したと語ると同時に、7ヶ月に及ぶ婚約を破棄したのは自分ではないと発言する。

 25日エリック・クラプトンを迎えて WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPSのレコーディングが行われる。

 7月30日、昨年12月7日から営業していたアップル・ブティックが閉店。ポールは「ぼくらは先週の土曜日にアップル・ブティックを閉店することに決めた。いや、儲かっていないからやめるというわけじゃない。小売りがぼくらに合わなかったからだ。で、ぼくらは店に行って自分の好きな物を持って帰った。ぼくはとても素敵なコートをもらった。そして、友達に言ってまわった。店に残っている物はみんな無料だから、好きなだけ持ってっていいよって。」と語る。

 8月22日、アルバム「THE BEATLES」のレコーディング・セッションの最中にリンゴが出て行く。9月3日に復帰。

 8月26日、18枚目のシングル「Hey Jude / Revolution」をアップルからリリース。全世界で大ヒットし、ビートルズのシングルの中で最も売れた作品となる。トウィッケンハム・フィルム・スタジオでは36人編成のオーケストラと300人のエキストラが参加し「HEY JUDE」と「REVOLUTION」のプロモーション・フィルムが作成された。。

 8月29日、ジョージ、オリビア・トリニダート・アリエスと結婚。

 10月18日には、ジョンとヨーコがマリファナ不法所持で逮捕されている。

 11月1日、ジョージのソロアルバム「WONDERWALL」発売。

 11月22日、彼らは初のダブル・アルバム「The Beatles」をアップルからリリース。

 11月29日、ジョンとヨーコのアルバム「TWO VIRGINS」発売。

 12月7日、ポールが新しいガールフレンド、リンダ・イーストマンを見つけたと報じられる。当時、リンダは「ローリング・ストーン」紙や「ニューヨーク・タイムズ」紙で活躍中の女性カメラマンであった。

1969年の
出来事→GO


ラスト・セッション
 1月2日からトゥイッケナム・フィルム・スタジオで「ゲット・バック」セッションと呼ばれるレコーディングとフィルム撮影を開始。セッション中、ポール・マッカートニーと意見の食い違いがあり、ジョージが数日間グループを離れるが無事グループに復帰。22日からはビリー・プレストンがセッションに加わり、アップル・スタジオで「ドント・レット・ミー・ダウン」、「ディグ・ア・ポニー」などをレコーディング。30日に、アップル・ビルの屋上で予告なしのライブ・パフォーマンス、「ルーフ・トップ・セッション」を行い、これが、ビートルズとしての最後のライブとなる。

 リンゴは、2月3日から映画「マジック・クリスチャン」の撮影を開始。ジョージは、2月20日に、自宅のスタジオで「UNDER THE MERSEY WALL」のレコーディングを行っている。このテープは後に「ELECTRONIC MUSIC」に収められ発表された。

 3月12日、ビートルズ最後の独身者であったポールが、リンダとメリルボーン登記所で結婚。同日、ジョージとパティがマリファナ所持の疑いで検挙されている。

 同月20日には、ジョンがジブラルタルでオノ・ヨーコと結婚。25日から31日まで、アムステルダムのヒルトン・ホテルで「ベッド・イン」をして平和を訴えるとともに、この間、ジョンとヨーコは、「GIVE PEACE A CHANCE」をレコーディングしている。なお、ジョンとヨーコは、5月26日から6月2日まで、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルで2度目の「ベッド・イン」を行っている。

 5月28日、アップル・スタジオとEMIスタジオ作業が続けられていたニューアルバムの制作が終了する。のちに「LET IT BE」としてリリースされるが、当初、アルバムタイトルは、「GET BACK, DON'T LET ME DOWN AND 12 OTHER SONGS」と考えられていた。

 5月30日、20枚目のシングル「The Ballad of John And Yoko」をリリース。意外にもこの曲は、ビートルズとして初のステレオ・シングルで、ジョンとポールの2人だけでレコーディングが行われるとともに、この2人が共にレコーディングをした最後の曲で、ビートルズ最後のNo.1シングルとなってしまった。

 7月1日、彼らの最後のレコーディングとなるアルバム「ABBEY ROAD」のための本格的なセッションを開始。8日には、ジャケット撮影のため、早朝のアビーロードに集合する。20日、メンバー全員が顔をそろえた最後のスタジオ・セッションを行い、22日に最後のフォトセッションを行った。このアルバムは「LET IT BE」より前の9月26日にリリースされた。

 10月31日、アルバム「ABBEY ROAD」から両A面のシングル「Something / Come Together」をリリース。ジョージの作品が初めてA面になったがチャートは5位にとどまった。

 11月25日、ジョンはアメリカのヴェトナム侵略をイギリス政府が支持していることなどを理由にMBE勲章をバッキンガム宮殿に返還。12月15日には、世界各国主要22都市に向けて「War Is Over/ If You Want/Happy Chrismas from John and Yoko」と書かれたメッセージ・ポスターを発送するとともに、ジョージ、クラプトン、プレストン等総勢16人からなるプラスチック・オノ・バンドの「ユニセフを援助するポップ・コンサート」に出演し、大々的な平和キャンペーンを行った。

1970年の
出来事→GO


解散
 6月にトロントで平和祭を企画中のジョンとヨーコが、1月15日からロンドンのアート・ギャラリーで二人の性生活を描いた14枚の版画を展示したリトグラフ展「バッグ・ワン」を開くが、ワイセツ容疑で8枚の作品が押収される。

 目立った活動のなかったポールも、1月22日からソロ・アルバムのレコーディングを開始。

 1月27日、ジョンとヨーコは「INSTANT KARMA」をレコーディング。

 3月6日、彼らのファイナル・シングル「Let It Be/You Know My Name」が発売されるが、チャート1位にはなっていない。

 3月17日、ジョージはパティの誕生日を祝ってパーティーを開催、リンゴとモーリンも出席している。

 4月2日、ポールは「イブニング・スタンダード」紙に、「単独で行動をする場合、僕らは必ず他の3人の承諾を得なくてはならないんだ。僕のソロ・アルバムももう少しで発売できないところだった。クラインや他のメンバーが、ビートルズのアルバムの発売時期にぶつかってしまうと文句を言ったんだ。僕らは平和だ愛だと言っているけど、内部は全然平和じゃないよ。」と不満を述べている。

 4月3日にはリンゴも初のソロアルバム「SENTIMENTAL JOURNEY」をリリース。

 そして4月10日、ついにポールが「個人的、仕事上、そして音楽的意見の相違により」ビートルズ脱退を表明する。アップル宣伝部のデレク・テイラーは「彼らは解散を望んではいない。現在の一時的な分裂は、今後の彼らの発展の一段階に過ぎない。今のままではお互いの成長を拘束しているだけだからだ。ポールはビートルズの活動を一時停止するつもりだ。この先数年間は活動を中止するだろう」と述べるが、結局、再びビートルズとして活動することはなかった。

 4月17日、ポールの初のソロ・アルバム「McCartney」がリリースされる。

 5月8日、彼らはラスト・アルバム「Let It Be」をリリース。同月13日には映画「Let It Be」のプレミア・ショーがニューヨークで開かれるが、メンバーはひとりも出席しなかった。また20日には、ロンドンで映画「Let It Be」のプレミア・ショーが開かれるが、やはりメンバーは誰も出席していない。

 5月26日にはソロアルバムを出していなかったジョージもフィル・スペクターの協力を得てソロアルバムのレコーディングを開始する。

 7月20日、アップル宣伝部のメービス・スミスが正式に辞表を提出し、この日からアップルの宣伝部は活動を停止。8月4日アップル宣伝部を閉鎖。アラン・クラインがほとんどの従業員を解雇する。

 11月23日、ジョージは3枚組アルバム「ALL THINGS MUST PASS」発表。

 12月31日、ポールがビートルズの正式解散要求をロンドンの高等裁判所に提出し、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターの3人を告訴する。提出した文書の内容は、「1967年4月に結成された『The Beatles & Co』の関係を解消すること。及び正式に管財人を認定すること」であった。
作者のページ