1966年の軌跡

1月 1日
ポールは、"メロディー・メイカー"紙に、「ブライアン・エプスタインは短期間でとてもいろいろなことを覚えてくれた。でも、あの堅苦しさは相変わらずだね」と語る。
5日
ジョンとP.J.プロビー、ロンドンのナイト・クラブに出かける。日本でEP『恋のアドバイス』発売。
6日
「恋を抱きしめよう/デイ・トリッパー」、アメリカでゴールド・ディスクを獲得。
8日
ジョン、ジョージ、リンゴの3人はミック・ジャガー主催のパーティに出席。ポールはリヴァプールの家族のもとへ。
9日
エプスタイン、ビートルズの投資の話でニューヨークからバハマへ向かう。
12日
ジョンとシンシア、リンゴとモーリン、カリブ海で10日間の休暇を過ごすためにトリニダードへ飛ぶ。夜、ジョージとパティはミック・ジャガーやクリッシー・シュリンプトンとともにロンドンのディスコ、ドリーズに出かける。
13日
BBCが3月1日にビートルズのシェア・スタジアム・コンサートのもようを放映すると発表。
18日
ビルボード誌で「恋を抱きしめよう」が2位にダウン。「デイ・トリッパー」は最高位の5位へ。
21日
ジョージとパティ、エプソムサレー州エシャーの登記所で結婚。残りの3人のメンバーの中ではポールだけが結婚式に参加し、エプスタインとともに花婿付添人を務める。ジョージの結婚生活は1974年まで続く。トリニダードへ旅行中で参列できなかったジョンとリンゴは、その後、エシャーにあるジョージのバンガロー「キンファウンズ」でパーティを行っている。
22日
ジョージとパティ、ロンドン空港で記者会見ののち、バルバドスへ新婚旅行。
23日
ジョンとシンシア、リンゴとモーリン、休暇を終えて帰国。
25日
「恋を抱きしめよう」がビルボード誌のチャートでふたたび1位に返り咲く。
2月 4日
ビートルズが前年(1965年)に、3つのゴールド・ディスクを獲得したと発表される。その内訳は、"Help!"、"Eight Day's A Week"、"Yesterday"。
     
3月 1日
アメリカでの公開録画フィルム"Beatles At Shea Stadium"がBBCTVで公開される。
4日
ジョン、ロンドンの「イブニング・スタンダード」紙のインタビューで、次のように発言。「キリスト教は消えてなくなり、やがて消滅するだろう。議論するまでもないことだ。僕の言っていることは間違いない。いずれ証明されるよ。僕らは今やイエス・キリストよりも人気がある_」。イギリス国内では、この発言に対する反響はなにもなかった。
22日
"デイリー・エクスプレス"紙は、ポールとジェーン・アッシャーがスイスのスキーのリゾート地クロスターで休養中と報じる。
25日
ロンドンのフォト・スタジオで、手足を切断した人形と血のついた肉塊を持ったいわゆる「ブッチャー」写真を撮影する。
この写真はのちにアメリカ編集のアルバム『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』のジャケットに使われたが、あまりにも不快だとして問題になり、アルバムは発売後すぐに回収された。
ポールは、ロンドンの"イブニング・スタンダード"紙に、「遅かれ早かれいずれは何かとてつもないことが起こるということはわかっていたんだ。僕らはいつだって"ベツレヘムの星"が導いてくれているんだということを信じて疑わなかったから。名声というものは、それがどんな形をとっているにしても、誰もが欲しがるものなんだ。でも僕らはそれほど自分たちが有名だと思っていないんだ。つまり何て言うか、ザ.ザ・ガボールが自分の名声を信じていたようには、信じていないって言うことなんだけど」
26日
ポールが父親に贈った競走馬ドレイクス・ドラムがアイントリーのヒルトン・ブレイト競馬場で優勝。ポールは父の愛馬を優勝場パドックまで先導した。オッズ20倍での優勝だった。
     
4月 5日
ポールとジョンはそれぞれノーザン・ソングスの株を現金で14万6000ポンド購入したと伝えられる。その他に2人は別の株を売却してそれぞれ9万4000ポンド分の株を購入。この時の2人の持ち株はそれぞれ55万ポンドに相当すると言われている。
6日
「REVOLVER」 レコーディング開始。この日はアビイ・ロード第3スタジオで「トゥモロー・ネバー・ノウズ」(この時点では仮タイトルの「マークI」)をレコーディング。初めてアーティフィシャル・ダブル・トラッキング(ADT)が採用される。
13日
アビイ・ロード第3スタジオで「ペイパーバック・ライター」のレコーディングに着手。『ビートルズ・マンスリー』のカメラマンがレコーディング風景を撮影する。
 
5月 1日
恒例となったウェンブリ―・エンパイア・プールでの"ニュー・ミュージカル・エクスプレス"紙の「ポール・ウィナーズ(人気投票優勝者)・コンサート」に出演し、15分間演奏。これが、ビートルズとしてのイギリス最終公演となる。
14日
"メロディー・メイカー"紙は、人口が400万人しかいないデンマークで、ビートルズが100万枚以上のレコードの売上げを記録したと報じる。
17日
日本公演の入場券抽選が行なわれる(3万人分の入場券に対し21万人が応募)。
21日
ポールとジョージ、ビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストンに会い、彼らのニュー・アルバム『ペット・サウンズ』のアセテート盤を聴く。
6月 5日
アメリカのTV番組"The Ed Sullivan Show"でビートルズのロンドンでのフィルムが放映される。
10日
12枚目のシングル"Paperback Writer / Rain"をパーロフォンからリリース。
11日
ポールは"ディスク&ミュージック・エコー"紙に、「ビートルズの、アメリカでのイメージはすごく嫌だな。4人の愉快なモップ頭なんていうイメージは頭にくるよ。僕たちが死んだ時、こんなふうに思い出してほしいと思うんだ・・・いつまでたっても忘れられない、すばらしい音楽を作り出した4人の男たち・・・っていうふうに」
16日
BBCTVの"Top Of The Pops"に出演。ビートルズのTV出演は1965年の8月以来のことだった。"デイリー・ミラー"紙が、アメリカ編集盤のアルバム"Yesterday And Today"のジャケットが「あまりにも攻撃的である」という理由でやり直しすることになったと伝える。問題になったジャケットは、ビートルズが肉屋の仕事姿で肉の塊や人の首に囲まれてたっているところを描いたもの。 これが、"ブッチャー・カバー騒動"と言われるもの。
17日
ポールがキンタイヤのマクリハニッシュの近くに183エーカーの酪農場を買う予定であると、"デイリー.ミラー"紙が報じる。農場主の妻ジャネット・ブラウン夫人はポールとジェーン・アッシャーが立ち寄った後に、「私たちの農場はずっと前から売りに出していたんだよ。でもまさかあんなに有名なカップルが見に来るなんて夢にも思わなかったわ。ポールさんは前からスコットランドに農場を買うのが夢だって言ってたわ」と語る。
23日
ビートルズ、ロンドン空港からドイツに向けて出発する。
24日
ドイツ・日本・フィリピンをまわるワールド・ツアー。7月4日まで。
25日
旧西ドイツ、エッセンのグルーガハッレでライブ。ステージうしろの赤と白の大きな幕や、ステージの真下には、主催者である(旧)西ドイツのエンターテイメント誌『ブラボー』のロゴがダイナミックに飾り付けられている。
27日
ドイツ・ツアーを終えて日本に向けて出発したが、台風のためアラスカ、アンカレッジで足止めを食う。
29日
午前3時44分、羽田へ到着したビートルズはハッピを着て飛行機のタラップを降りる。台風4号の影響で、10時間以上遅れての来日。
30日
午後7時35分、日本武道館でビートルズの公演が始まる。ステージのもようは日本テレビが撮影する。ビートルズのライブは30分間。日本公演は7月2日まで行われた。
7月 3日
フィリピンのマニラに到着。空港には5万人が押し寄せ大混乱となる。
4日
マニラのリザール・メモリアル・フットボール・スタジアムで2回公演し、8万人を動員。マラカニアン宮殿で予定されていたマルコス大統領夫人主催の昼食会に招待されるが、手違いで欠席。
5日
前日に開かれたマルコス大統領夫人主催のパーティーに出席しなかったため、マニラ空港でメンバーが暴行を受ける。
6日
ニュー・デリーで3日間の休暇。
8日
ロンドンに戻る。ポールは2度とフィリピンには行かないと語る。さらに言葉を続けて、「1番憎んでる奴にだって、マニラに行けとは言わないよ」。
12日
レノン=マッカートニー、1965年度のアイバー・ノベロ賞を3部門で受賞。翌日行なわれた授賞昼食会にはポールだけが出席し、MBE勲章を返還する人が出たことを皮肉って「ありがとう。今度はだれも返さなきゃいいけど」とコメント。:"We Can Work It Out"(1965年度のシングル売上げ1位)"Yesterday"(最優秀作曲賞)"Help!"(シングル売上げ2位)
29日
4ヶ月前のイギリスでのインタビュー記事が、アメリカのティーン雑誌"デートブック"誌に転載される。初出時は何事もなかったが、この転載時に、ジョンのキリスト教発言は大騒動を引き起こすことになる。アメリカ南部における"バイブル・ベルト(聖書地帯)"のラジオ局が、ビートルズのレコード焼き討ち集会を企画。"ニュー・ミュージカル・エクスプレス"紙は、ビートルズが南アフリカ.ツアーの話を断ったと報じる。
31日
アラバマ州のDJがキリスト発言に講義。ビートルズの曲を放送禁止に。その後、全米規模のビートルズ・ボイコット運動に発展。
8月 5日
全世界注目の中、13枚目のシングル"Yellow Submarine / Eleanor Rigby"と7枚目のアルバム "Revolver"を、同時にパーロフォンからリリース。
11日
ロンドン空港から、アメリカ・カナダ・ツアーへ出発。3大テレビ・ネットワーク、NBC、ABC、CBSがジョンの「キリスト発言」をめぐる論争についての特別番組でビートルズの記者会見のようすを中継する。ジョンは「人々の感情を傷つけたなら申し訳ない」と謝罪。
13日
デトロイト・オリンピック・スタジアムで公演。
14日
クリーブランド・ミュニシバル・スタジアムで公演。
15日
ワシントンで公演。
16日
フィラデルフィア・ミュニシバル・スタジアムで公演。
17日
トロントで公演。
18日
ボストンで公演。
19日
メンフィス・コロシアムで公演。
20日
シンシナティで公演。
21日
セント・ルイスで公演。
 
23日
2度目のシェア・スタジアム公演。
25日
シアトルで公演。
26日
ポールはロサンゼルス滞在中に、ジェーンとの結婚を否定する。「まったくばかげてる」とポールは言う。「今のままで私たちは十分幸せなのよ」とジェーン。
28日
ロサンゼルス・ダッジ・スタジアムで公演。
29日
サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで、ビートルズとしてのラスト・コンサート。
31日
ロンドンに戻る。ポールは、「ツアーはすごく素晴らしかった。すごく疲れたけど」と語る。
   
9月 6日
ジョン、西ドイツとスペインで映画"How I Won The War(ぼくの戦争)"の撮影開始。11月6日まで。ジョン、役作りのため髪を短く切り、丸めがねをかける。
14日
ジョージ、シタールを学びにインドへ。10月22日まで。
19日
ポールは、"サンデー・タイムズ"誌に、「僕は、ファンの女の子達の気持ちがよくわかる。僕も前に1度ウィー・ウィーリー・ハリスのサインが欲しくてリバプール・エンパイアの前で列に加わって待っていたことがあるんだ。サインが欲しくてたまらなかったんだよ。ばかなことをしたなあなんて全然思っていないよ」と語る。ジョージとパティ、ボンベイのタージ・マハール・ホテルにサム・ウェルズ夫妻という偽名を使ってい滞在していたが正体が明らかになり、ホテルで記者会見を行なう。
 
10月 14日
"ニュー・ミュージカル・エクスプレス"紙は、ポールが現在ヘイリー・ミルズ主演の映画"Wedlocked or All In Good Times"(このタイトルは後に"The Family Way"に改題)の音楽を作曲中と報じる。
22日
ジョージ、ラヴィ・シャンカールのもとでのシタールの修行を終え、パティとともにインドから戻る
   
11月 6日
ジョン、スペインで映画『ハウ・アイ・ウォン・ザ・ウォー(僕の戦争)』の撮影を終える。
9日
ジョン、ロンドンのインディカ・ギャラリーでヨーコ・オノと出会う。
19日
ポールはケニヤのバカンスから帰国。
24日
アメリカ・ツアー以来、5か月ぶりにアビイ・ロード・スタジオに全員がそろい、第2スタジオで「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をレコーディング。
12月 1日
ポール、セント・ジェームズにあるスコッチにアメリカのグループ、ヤング・ラスカルズのイギリス・デビュー・コンサートを見に行く。NME読者人気投票のワールド部門で、ビーチ・ボーイズにトップを譲る。

ヤング・ラスカルズ:
1964年に結成され、翌年デビューした米国ニューヨーク出身の4人組で、ソウルフルなヴォーカルで「グッド・ラヴィン」「グルーヴィン」などのヒットを放ち、ブルー・アイド・ソウルの先駆者として人気を集めました。
10日
初のアルバム"OLDIES(BUT GOLDIES)"をパーロフォンからリリース。
18日
映画"The Family Day"(ジョン・ミルズ、ヘイリー・ミルズ主演。ポールマッカートニー音楽。ジョージ・マーティン編曲)のプレミア・ショー。ポールがソロ・コンポーザーとしてクレジットされるのはこれが初めて。ポールは26分間の映画音楽を作曲。
29日
アメリカ音楽業界誌"ビルボード"は、ビートルズが現在世界13ヶ国で1位の人気だと報じる。
31日
ポールは、"ニュー・ミュージカル・エクスプレス"紙に、「僕達の人生の様相はすっかり変わった。というのも、僕達の今現在置かれてる状況が、周囲の環境まですっかり変えてしまったから」と語る。
     

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